ラベル

2017年6月12日月曜日

東方蛍光祭にて

来場者プレゼントの鞄

 2017年6月4日にて綿商会館で開催されたリグル・ナイトバグオンリーイベント「東方蛍光祭」に一般参加しました。実は、訳あって東方Projectに対する熱意が著しく磨耗していたのですが、リグルオンリーが開催されると聞いて急いで戻って参りました。今回は蛍光祭の感想などを書いていこうと思います。

 まずはイベント全体の雑感です。東方におけるリグルの扱いは、東方について詳しい方ならばご存知でしょう。正直なところ、マニアックなごく少数の人が来るだけなのではないかと思っていました。しかし、蓋を開けて見れば、参加者は思っていたよりも多く、カタログや来場者プレゼントも全て捌けたとのことでした。失礼な話ではありますが、私はその報告を聞いてかなり驚いたものです。サークル参加者にはリグル関係で名高い面々が集まり、コスプレイヤーも沢山いて至る所に緑髪の男女が歩くという状況で、リグルファンにとっては至上のイベントだったのではないでしょうか。現地でリグルのイラストやSSを制作してバトンを回すというリアル・リグルリレーという催しもなかなかに楽しいものでした。私も駄文を投げてきました。

 次いで頒布物についての感想です。私が以前から好いていたサークルはもちろんのこと、初めて名前を聞くような方も面白い創作物を出していて、様々な作品を入手することができました。今回は特に面白いと思ったものを紹介しようと思います。

 まずは立体物から紹介します。写真下はBIFRSTさんや水中花火さんが頒布していたアクリルキーホルダーです。素敵なイラストがそのままアクセサリーになるわけですから、アクリルキーホルダーというのは絵描きにとってもそのファンにとっても嬉しいものですね。 立体物の中で特に目を引いたのは「ぷちっと★くりえいと」というサークルが頒布していた粘土のフィギュア (写真下) です。このサークルの存在は知っていましたが、購入したのは今回が初めてです。小さくて可愛らしい作品で、持ち帰る際にはうっかり壊してしまわないかとヒヤヒヤしたものです。購入したときに破損防止の備えのついた容器に入れていただいたのですが、それでも繊細で愛らしいこのフィギュアに取り返しのつかない傷がつかないかと恐ろしくてたまりませんでした。

 次は同人誌の話です。最初は「月刊ナイトバグ PHAMTASM」。かつて刊行されていたリグルオンリーマガジンが今回のイベントのために復活したというもので、表紙は水中花火さんとうがつまつきさん。内容は様々な人が制作したリグルのイラストや漫画、SSが並んでいるというものです。月刊ナイトバグで見かけた面々が今回も寄稿しているのを見ると何か思うところがあります。この中での一押しは定宏さんの「いつか かえる ところ」というホラー漫画です。この本の中では唯一のホラーでして、私はホラーが好きなので特に好印象でした。有名な「渋谷のリグル・ナイトバグ」のように、リグルはホラーも似合うキャラクターだと思います。

 次は羊箱さんの「なつりぐる」。バカルテットで展開させる種類のギャグ漫画で、リグルが日焼けしたチルノのような人気を獲得するために卑怯な手段に出るという筋書きです。可愛い表紙につられて手が伸びて、表紙を開くとギャグと人気ネタという不安要素があって内心ヒヤリとしました。しかし、オチが見事の一言。買って良かったと思いました。

 次は粒状斑さんの「触角カタストロフ!!」。以前の「リグルは触角を自由に変えられる」という独自設定を再び採用した作品です。沢山のキャラクターが出てきてわちゃわちゃと騒ぐという種類の作品が好きな方におすすめです。斑さんは「月刊ナイトバグ PHAMTASM」にも成人向けにならない程度のアレを寄稿しているのでこちらも必見です。私としては、昔に描いていたシリアスなノリの作品をまた見たいと思っているところです。私が斑さんの存在を知り、リグルに対する認識を改めた契機となっている作品ですから。

 次はきじまさんの「リグルの合体技をかいた本。」。きじまさんと言えば、リグルだけでなく「ボクと魔王」の二次創作イラストをよく描いている方ですね。「グリモワール オブ マリサ」をオマージュした作品で、リグルが他のキャラクターと協力して放つスペルカードを魔理沙が記録するというものです。オマージュ元の方は遠い昔に読んだきりですが、そのときの魔理沙のやや嫌味のこもった解説が頭に浮かぶほどに上手にオマージュしているという印象でした。

 次は星落としさんの「ジオグラフィック」。簡素な線でリグルと蟲たちの一日を描いた漫画です。軽妙で味わいのある作品だと思います。スクリーントーンよりも線の表現が多いのが印象的で、それがすっきりとした印象を与えているというように感じました。結末も好きです。

 次はBIFRSTさんのイラスト本。内容はリグルに様々な蟲の格好をさせてみたというものです。BIFRSTさんはスラリとしたスマートな体つきのリグルをよく描く方ですが、硬い質感と鮮やかな模様をもつ蟲の表現と合わさり、蟲に興味のある方にとっては至福の一冊となっています。私にとって、今回のイベントで一位二位を争う収穫でした。ちなみに、相方さんのポストカードですが、封筒の出来が良すぎて未だに開封できていません。

 最後はうがつまつきさんの「なあ…交尾しようや…」。とんでもない題名ですが一般向けギャグ漫画です。題名通りの蟲の交尾についての面白漫画です。実を言うと、私はうがつさんのギャグ漫画を読んだことがなく、ギャグというものは色々と難しいものですから、この作品を購入したときは内心不安でした。ただそれは全くの杞憂。今思えば失礼と言わざるを得ないものでした。随所に小気味よく挟まれる小ネタに最後の渾身の大ネタ。リグルと蟲の生態を絡めたネタを使った作品は多くありますが、その中でもトップクラスの出来だと思いました。 今回のイベントで一ファンとしてうがつさんにお会いできたことも嬉しかったです。ところで「断罪のユディト」の読み切り版ってどうなりました?

 以上で感想は終わりです。東方オンリーイベントというだけでは今後参加しないと思いますが、リグルが主役のイベントが再度開かれるようなことがあれば、また参加したい所存です。関係者の更なる活躍を願っております。

……なんてことを書いていた最中に続報が。これは期待ですね。

2016年9月21日水曜日

感想・漫画「幽麗塔」

「幽麗塔」第1巻
「幽麗塔」全巻

 「幽麗塔」という漫画作品をご存知だろうか。作者は乃木坂太郎氏であり、「医龍」で有名である (と言っても私は読んだことがないのだが) 。全9巻の青年漫画で、似た題名の黒岩涙香の小説「幽霊塔」が元になっているらしい (と言っても私はその小説すら読んだことがないのだが) 。私は某サイトでの無料で3巻まで読めるというキャンペーンでこの漫画のことを知った。普段は漫画を含めてまともに本を読まない私だが、冒険活劇として面白そうだと思って、購入して読んでみたところ、冒険活劇という一言では語ることができない作品と分かった。

 未読の方のために、内容を少しばかり紹介してみる。画風は劇画ではないが、萌え絵でもないという程度。舞台は昭和29年の神戸。天野太一という青年が主人公である。天野はカストリ雑誌を読んで怠惰に日々を過ごしており、金も無ければ仕事も無く、当然ながら女もいない。性格も恐ろしいほどに庶民的である。そんな天野だが、あるとき、不意にテツオという謎めいた美青年に出会う。テツオは幽霊塔というかつて身の毛もよだつ殺人事件の起きた場所に天野をつれてくる。実は、幽霊塔には財宝が眠っており、テツオは幽霊塔を徘徊する謎の殺人鬼に備えて天野を勧誘しようとしていたのである。テツオという魅力的な人物に誘われて舞い上がる天野だが、実はテツオには大きな秘密があった。それは、テツオは実は女性であるということ。幽霊塔で起こった殺人事件とは、老婆が若い女に殺されたというものだが、果たしてテツオの正体とは、そしてその真の目的は……。

 ここまでは未読の方でも問題ない範囲である。以降は既読の方に向けての話になる。


 私は冒険活劇を期待してこの作品を読んだと前に書いたが、実際のところ、この作品は冒険活劇としても優れている。カラクリ屋敷や孤島、隠された村などのいかにもサスペンスや探偵小説に出てきそうな舞台。謎めいたテツオという人物。奇妙な医者。天野の成長。混沌が未だに残る昭和の神戸の地で繰り広げられる、流血あり惨殺死体あり裸体ありの展開は、冒険活劇が好きな読者を満足させる描写に溢れている。ただ、これらの要素は作品の中で重要な地位を占めているとはいえ、作品のテーマはもっと別のところにある。

 この作品を「奇人変人がたくさん登場する」と評した人物がいる。確かにこの言い方も間違いではなく、読者がこの作品をどう受けとるかは様々であろう。ただ、この評価はあまりにも浅薄すぎる。実際にはもっと適切な表現がある。それは「当時の社会情勢の中で自分を押しつぶさずには生きることができなかった人々がたくさん登場する」ということだ。テツオはいわゆるLGBTの中のT、トランスジェンダーに当たる人物である。山科は男児を愛さずにはいられない。劇中では最後になるまで悪役然とした振舞いを見せる丸部も、最後の最後にその正体を語る。男女平等問題に関心のある方ならば、花園さえも抑圧された女性であると見なすかもしれない。それ以外にも様々な「社会的弱者」が作品に登場する。この作品に主張があるとすれば、それは主人公の天野が見出した、抑圧のない社会への理想であろう。作中の人物たちは様々な災難を被り、ないし引き起こしていくが、それも自由な社会があれば起きなかったのではないか、と考えさせる内容になっている。

 このような点で、この作品はかなり政治的な作品であると言える (青年漫画ではよくあることだろうが) 。ここ最近のLGBTや男女平等などの運動に賛同する方々や、抑圧なき自由な社会を理想とする方々ならば、この作品を素晴らしい作品と評価するのではなかろうか。近代的な良識を身につけた方々にとっては、この作品は現代社会にとって重要な問題を提起していると喝采を送るだろう。

 私はこの作品を政治的と評したが、政治的な主張はしばしば擁護したい対象を理不尽なまでに神聖化してしまうことがある。しかし、この作品はそのような単純化を回避している。「社会的弱者」である登場人物は様々な暗部を抱えている。テツオには幽霊塔での殺人事件で義母を見殺しにしたという汚点がある。丸部に至っては作中のほとんどの場面で底の見えないヒールとして活躍していた。政治的な問題が絡むと、しばしば潔癖とも言えるヒーローを創造してしまう人が多い中で、この点については私はこの作品を評価したい (とはいえ、この作品では、登場人物の暗部の多くは抑圧なき社会ではあれば回避できた可能性が示唆されている。その例として分かりやすいのがテツオで、そもそもテツオに対する日頃の扱いが無ければ、テツオは義母を見殺しになどしなかっただろう) 。

 ただ、私としては、この作品はそこまで挑戦的なものではなく、新しい価値観を提起するものでもないと評したくなる気持ちがある。私はこの作品の冒険活劇としての要素はかなり高く評価している。それでも、この作品のテーマである抑圧なき社会への理想は、現代主流となっている倫理観に乗っかっているだけのものと言うこともできなくもない。このての理想の矛盾や問題点に関心がある私としては、この作品のテーマは下らない理想論としか思えないのである。確かに登場人物の境遇は可哀想である。抑圧的で多様性を認めない社会が悪いと吐き捨てるのは簡単だ。しかし、実際のところ社会を構成する人々の多くはあまりにも凡庸であり、凡庸な人が凡庸なりに生きていける社会というものは抑圧がつきものだ。抑圧なき社会を実現するのは難しく、かといって実現しようとすれば新たな抑圧が凡庸な人々に襲いかかる。詳しくはここでは述べないが、このての理想は残念ながら問題点が山積みなのである。結局のところ、この作品を評価するとすれば、近代的な人々の間で支配的な倫理観に基づいた、極めて道徳的で理想的な物語といったところである (山科が男児ではなく女児しか愛せない人間だったら、もう少しはこの点でも評価できたかもしれない。多様性が大事という人々も、そのての人物の人権までも守りたいとは主張しがたいものだ) 。

 結論としては、現代の良識に則っている方は読んだら感動するかもしれないが、そうでなかったら肯定できない箇所が多々ある作品であると私は評する。政治的な要素は気にしないし、冒険活劇として天野の成長を楽しみたいという方にはおすすめできるかもしれない。

2016年9月12日月曜日

SCP-173の罪

 あなたは「SCP財団」 (SCP Foundation) というウェブサイトをご存知だろうか。ここ数年で日本国内でも知名度が高まっているが、元来は海外発の創作コミュニティである。このウェブサイトでは、奇妙な事物を管理するために謎の集団が記した文書という体で書かれた記事を中心とした創作物が日々制作されている。SCPの元祖は「SCP-173」という記事である。この記事がSCPで最も有名な作品だと思われる。しかし、SCP-173を知っていても、この記事自体の由来とその記事で使用された画像の出典まで知っているという方はごく一部なのではなかろうか。

 SCP-173として知られる文書は、海外の画像掲示板「4chan」の/x/で作成されたものが元になっている。出典の不明な謎の写真とともに書かれたこの文書は、前述の掲示板で大流行し、似たような構成の文書が多く生まれた。それからいくらかの変遷を経て現在のWikidotの形態に至っている。つまり、全てのSCPはこの4chanの文書の二次創作であると言え、SCP-173と同様の形式の記事やTaleなどの全ての作品はSCP-173をルーツとしている。

 画像掲示板と言えば、日本国内にも、独自の用語を使用する奇妙な人々が跋扈する生まれたばかりの掲示板が存在するが、おそらく4chanで生まれたSCPも本来はその文化と似たような流れで生まれたのだろう。SCP-173は元来はちょっとした遊びであり、その出来が極めて良かったために現在の巨大なサイト群にまで成長したものと思われる。ちょっとした遊びのためにわざわざ画像の出典を探そうとまでは思わないし、ライセンスがどうこうと法的な話まで考えはしない。

 実のところ、件の作品で使用された写真に写っていた物体の正体は芸術家の加藤泉氏の作品・Untitled 2004であった。後に、加藤氏から商用利用をしないなどの条件で利用が正式に許可され、加藤氏のご厚意により法的な問題に発展することは回避されたのだが、それは事後承諾という形であった (http://www.scp-wiki.net/forum/t-76692/scp-173#post-2106398) 。加藤氏は自身の作品をSCP-173としての利用する許可を出す際に、SCP-173と自身の作品は全く別のコンセプトであると述べている。加藤氏がどのような意図であの作品を制作したのかは私は知らないが、少なくとも人間の首を締めてくる怪物ではなかっただろう。

 私が問題にしたいのは件の画像の法的な問題ではない。それについてはもう話がついている。問題なのは、SCP-173が非常に優れた作品であるということだ。SCP-173は驚異的な作品である。だからこそ、数多くの後続者が現れ、現在のSCPの発展に至っているわけであるが、SCP-173はその素晴らしさに罪がある。

 SCP-173は怪物が主人公の作品であるが、その怪物は威圧的に牙を並べた姿ではなく、そのためにいっそう不気味さを感じさせる。怪物は奇妙な振舞いをするが、その意図は不明であるし、そもそも意図があるのかも分からない。自然に生まれてしまったのか、それとも誰かが作り出したのか、それすらも定かではない。そして、その怪物を管理する存在がいて、それは怪物を管理するための手法を確立し、人間を消耗品扱いしながらも管理に成功しているようだ。怪物自体も魅力的であるが、その周辺も興味深い謎に満ちている。SCP-173を一読した人間が、その強大な魅力を頭から除去するのは難しいことだろう。そして、その魅力は長く長く頭の中に留まり続けることだろう。加藤氏の作品を鑑賞したいときにさえも。SCP-173の魅力を知った人間が、加藤氏の件の作品から得られる印象から不気味な怪物の姿を振り払うことができるだろうか。

 加藤氏のあの作品を見て、SCP-173の不気味な文章を連想してしまうのは、鑑賞者にとって不幸なことでもある。件の作品は見ようによっては不気味に思えるが、むしろ優しい印象を抱く人もいるのではなかろうか。加藤氏の意図とは別に、鑑賞者は作品から様々な印象や感想を抱く可能性がある。しかし、その可能性はSCP-173を見た後には大きく狭まることだろう。SCP-173と加藤氏の作品は別のコンセプトであると「考える」ことはできても、SCP-173という優れた文章の影響から完全に逃れることは難しいのではなかろうか。SCP-173は優れた作品であり、そのために有名になり、日本語を含む様々な言語にまで翻訳された。今もSCP-173は多くの人々を魅了し、加藤氏の作品を鑑賞する者にある種の枷を与え続けていることだろう。SCP-173は画像で遊んだ結果生まれた作品であり、あまりの秀逸さに創作サイトまで作り上げてしまったという力を秘めていたが、それだけに私は罪深さを感じてしまうのである。

参考文献

2016年9月10日土曜日

二次創作についての暴言~二次創作は原作を「リスペクト」しているのか~

 一時期、私はある創作物の二次創作を気に入り、その二次創作小説、いわゆるSSについて語り合うBBSに入り浸っていた。その創作物は女性キャラクターがたくさん登場するのだが、そのキャラクターたちは互いにあっさりとした関係性を構築しているように描写されていた。しかし、それは原作の話であって、二次創作ではしばしば異なった。ある二次創作では、ある女性キャラクターが別のある女性キャラクターと糸を引くほどの恋仲であるように描写される。確かに原作でも仲良しという設定ではあったが、あくまでも「普通」の友人という関係性であったはずだ。また別の二次創作では、原作ではほとんど交友関係のないキャラクター同士が平然と仲睦まじく会話していた。しかも、そのような原作の設定とは明らかに異なるとしか思えない描写は、数多くの二次創作で見られたのである。

 私はどうもそのような原作と二次創作との差異が納得できなかった。そこで、件のBBSで質問をした。「原作では彼女たちはもっとこざっぱりとした関係性だったと思うのですがどうでしょうか」というようなことを書き込んだのである。するとこのような返事が返ってきた。「原作と一緒だったらそもそも二次創作する意味がないよね」

 この一件以降、私は原作と二次創作との関係性の奇妙さに悩むことになったのだが、今現在、一応の解釈を何とか用意することができた。この記事ではこの話について書こうと思う。なお、この記事での「二次創作」は漫画やアニメ、コンピュータゲーム、ライトノベルなどを原作として制作された同人の作品に限るものとする。要するに、pixivやハーメルン、同人誌即売会辺りで発表されているもののみを指すということだ。広義の二次創作は、翻訳小説や公式に制作された漫画原作のテレビゲームなども含むが、この記事では扱わないものとする。ただし、アンソロジーとして公式に出版されている二次創作漫画などは含めてもいいかもしれない。

 奇妙に聞こえるかもしれないが、そもそも、二次創作は原作と同じだと評価されない。二次創作は原作を元に新たに創作された作品であるのだが、二次創作は本質的に原作と異なる必要があるのである。極端な例で言えば、漫画の単行本の表紙をトレーシングし、これをその漫画の二次創作だと言ってウェブサイトで公表しても、せいぜい顰蹙を買うだけだろう。ある小説の筋書きと全く同じ筋書きの小説を書いて、それを二次創作だと言い張ったところで、読者は原作を劣化させた何かを見せつけていると思われるだけだろう。原作と全く同じものは二次創作には求められていない。

 作品が二次創作として評価されるには何らかの創造性が必要だ。原作とは異なる要素を二次創作の中に込めなければならない。例として、ある漫画のキャラクターを原作にしたイラストを描くとすれば、そのキャラクターが原作ではとらなかったポーズをさせたり、原作とは異なる衣装を着せたりするといった方法がある。この方法は原作に存在しないものを単純に足し算したものと言えるだろう。原作ではCGだったのを水彩画で描いてみるというものもあるだろう。これは原作の表現方法とは異なる表現方法を用いるということで、新しい価値を二次創作にもたらしている (イラストなどは描き方の癖が個々人で異なることもあり、トレーシングさえしなければ描くだけで同じような意味での創造性がある程度生じるが) 。小説や漫画などでは、原作では存在しなかった展開をキャラクターたちの経験させるというものがあるがよくあるが、これもまさしく原作に新たな要素を加える行為である。ある意味では、二次創作は原作に反逆しなければならないということである。

 とはいえ、二次創作は原作に反乱を起こせばいいというものではなく、あくまでも原作に寄り添うことも同時に求められる。よく二次創作が批判される例で、キャラクターの性格や特徴を原作のものとは異なるように描写してしまうというものがある。原作では普段の二人称が「あんた」であるキャラクターにうっかり「お前」と叫ばせようものなら、二次創作者はファンに袋叩きにされてしまう。二次創作では原作に忠実に振る舞いつつも、それでいて全く異なる価値を付加するというアクロバティックな芸当が求められるのである。

 ただ、ここで言うキャラクターの性格や特徴は、正確に言えばキャラクターの性格や特徴であると「多くの人々に信じられているもの」である。二次創作者は原作者ではないし、原作者の頭の中を覗いて作品の設定を直接理解するということはできない。二次創作者以外の人間も同様だ。人間は生まれたときから他人とは何らかの差異があるものだし、遺伝的に同一な人物も環境や経験が変われば、互いに別個な特徴をもった人間になっていくだろう。とはいえ、人間同士は全く別の種類の生き物というわけではなく、時代、場所、言語などを共有すれば、かなり似通った部分が出てくる。そうでなければ世の中には道徳や倫理といった共同体の間で広く一般に共有される概念は生じ得ないだろう。同じ作品を時代、場所、言語などを共有する人間が鑑賞すれば、その作品の設定に対する認識は共通する部分が出てくると思われる。二次創作に多くの人々の認識する原作の設定と異なる要素があると、その二次創作の作者は「原作の設定を理解していない」と非難されることになる。意図的に原作の設定を歪めた二次創作を作っても同様である。原作とはあまりにも違いすぎる「と多くの人が考える」設定を導入すれば、「オリジナル設定」が行き過ぎてまるで別物だと批判されてしまうことになる。

 二次創作が原作の設定に沿っているかどうかを判定するのは原作者ではなく、一般には原作のファンであるというのが重要である。というのも、原作のファンたちは意外にも原作とは異なる設定の二次創作をお目こぼしすることが多いのだ。そもそも、二次創作でよくある、原作のキャラクターたちに原作では存在しなかった展開を経験させるというものは、原作とは全く異なる設定を与えているということに他ならない。それどころか、原作のキャラクターの大事な特徴である性格や性別などが変化してしまっている二次創作も珍しくない。そのような二次創作を批判する者もいることにはいるが、必ずしも多数派であるとは限らない。結局のところ、二次創作が原作に忠実であると見なされるか否か、または原作に忠実でないとならないと見なされるか否かは、鑑賞するファンたちのさじ加減で決まるのである。多くの人々が良しと見なせば、原作の設定に忠実でない部分があっても見なかったことにされるのである。また、この「多くの人々」というのは原作の全てのファンの多数派ということを必ずしも意味しない。多数派には原作の設定を捻じ曲げていると見なされる二次創作も、ある特定のコミュニティの中では立派な二次創作として大手を振ることができる場合がある。そのような場合では、「多くの人々」はあくまでもそのコミュニティの中の多数派を指している。

 ここで具体例を紹介しよう。「東方Project」というゲーム作品には「リグル・ナイトバグ」というキャラクターが存在している。このキャラクターは少女の姿をした蛍の妖怪という設定なのだが、原作では短髪でズボンのようなものを着用した姿で描かれている。このことが原因で東方Projectの二次創作では男性として扱われてしまうことが多いのだ。女性として扱われる場合でも一人称が「僕」のボーイッシュな少女になっていることがしばしばある。しかし、原作には「ボーイッシュ」な外見をしているという設定は一文も存在せず、そもそも一人称は「僕」ではなく「私」である。東方Projectのファンの中にはこのような状況を憂いている人もいるが、多数派はどうやらそうではないようだ。実のところ、原作の東方Projectには名前のある男性のキャラクターはかなり貴重であり、ボーイッシュな少女のキャラクターもほぼ存在しない (少なくとも現時点では) 。そのため、二次創作のリグルは意図的に原作の設定を歪めることで、新しい価値、つまりは「男性」または「ボーイッシュ」という属性を獲得していると言える。(実際は、リグルはあまり人気のないキャラクターであるらしく、せいぜい竿役を与えられることがいいところなのだがね……)

 これは性別までねじ曲がっているという極端な例ではあるが、このようにして設定を変更することで、二次創作では原作にはない価値を付加することができる。原作ファンが二次創作を楽しむときに、二次創作でのある程度の設定の変更を無視するのは、そもそもそうしなければ二次創作を作ることすら難しい場合がしばしばあるためでもあるだろう。このような二次創作での原作の設定の無視が多くの人々に認められ、二次創作の中での慣習が生じ、ある種のジャンルが作られてしまう場合すらある。二次創作での原作には無い創造性が極度に強まると、二次創作の中の原作の要素が覆い隠され、ある意味では全く別の派生した作品に見えてしまう場合がある。ここまでくると、原作は知らないが二次創作を楽しんでいるという人々や、原作は知らないが二次創作の二次創作を作ってしまう人々が現れることもある (そのような事実が知られると、大抵は原作を知っている多数派に非難されることになる) 。そのような二次創作の慣例が強く築き上げられた共同体では、二次創作が界隈の中で会話し、コミュニティを作り上げるための術になっていることもある。

 ただ、そのような二次創作の原作に反する部分というものをどの程度許容できるかは個人差がある。リグルの件についても、多くの東方ファンは黙認しているが、リグルを男扱いするのは全く認められないと考える人間もいる。二次創作一般に対する姿勢には個人差があり、二次創作を全く認めず、原作以外はどれも単なる偽物に過ぎないと考える人もいる。そのような姿勢は厳格で、その基準も明瞭である。ただ、この二次創作は原作に沿っていて良いが、あの二次創作は原作と全く似ていないから駄目であるというように、二次創作には良し悪しがあると考える人もいる。二次創作を完全に否定する人々にしても、二次創作をある程度は肯定できる人々にしても、悪い二次創作を鑑賞したときには、「原作 (者) に対するリスペクト」なる言葉が紛い物にしか見えなくなることだろう。しかし、二次創作が良い二次創作に見えるかどうかは、二次創作を鑑賞する人間の感性などに依存する部分も多く、しばしば恣意的な決断をしてしまうこともある。極端な言い方をすれば、二次創作は全て原作の単なる偽物に過ぎないと言える。

 そもそも「リスペクト」という二次創作関係でしばしば使われるこの言葉も、単純にそのままの辞書に載っているような意味であるとは限らない。人によっては「私は原作をリスペクトしているため、二次創作は一切制作しない」と考えることもあるだろう。実際のところ、二次創作での「リスペクト」という言葉には原作からの過剰な逸脱を抑制する働きがあるようだ。

 二次創作は原作にない創造性が付加された作品である。しかし、「私の作ったこの二次創作はあなたの作品に新たな価値を加えた全く新しいものなので、あなたのものなどでは決してありません。この二次創作は私の自由にさせてもらいます」などという物言いを原作者や原作を販売する人間などが看過することはほぼあり得ない。ほとんどの人はそのような事態を肯定しないだろう。そのため、現在の法では、原作者などはその二次創作に対して大きな権力を有している。そのような人々のさじ加減で「自由な二次創作」が認められるかどうかが決まってしまう。いくら二次創作に寛容な原作者であっても、極端に原作を捻じ曲げた二次創作まで見逃してくれるかどうかは分からない。最悪、二次創作に寛容な姿勢がこのようなひどいものを生み出してしまったのだと考え直し、二次創作を苛烈に規制し始めてしまう可能性もある。「リスペクト」の概念はそのような「神」の怒りを抑えるための下々の民の知恵でもあるわけである。

 二次創作は本質的に原作とは異なるものでなければならない。ある意味では、原作の結末に不満がある人物が、原作への憎悪を込めつつ自分にとって幸福な結末を二次創作するという行為は、極めて「二次創作的」な二次創作と言えなくもない。ただ、そのような動機を積極的に肯定できる人はあまり多く無いだろう。世の中には自分の二次創作が原作設定を上手く踏襲できていると自負しているという人間もいるが、実際のところ、二次創作は偽物でしかないという意味ではどれもこれも同じ穴のむじなである。そうは言っても、偽物同士仲良くできるかというと難しいところだ。寛容さを積極的に肯定せよという言説が流行る現代でも、寛容であることというのは多くの人々にとっては簡単なことではない。遠くのどこかに自分と違う人間がいるということを否定しない人でも、すぐ近くに自分とは全く異なる人間がいるということにいつまでも耐えられるとは限らない。とりわけ二次創作というものは立場の不安定なものだ。二次創作を愛好する人間でも、あらゆる二次創作を愛好できるわけではないだろう。どこまでが原作に沿っていて、どこから先が原作に反するものかという考え方は人によって異なるところがある。その考え方の外にある二次創作が批判に晒されているとき、その二次創作を守ろうという意識が働くだろうか。結局のところ、二次創作に対する考え方が近しい人々が集まり、その中で適度に原作に反発しつつ二次創作を楽しむというのが自分の好きな二次創作を守る術だろう。

2016年9月9日金曜日

「電車かもしれない」

この記事は本来はに別のサイトで投稿していたものです。修正した点もあります。

 皆さんは「電車かもしれない」という楽曲をご存知だろうか。アニメーションの方は知っているという方が多いかもしれない。少女が奇妙な楽曲に合わせて踊ったり回ったり縄跳びをしたりしているあのアニメーションである。 知らないという方も、検索すればそれっぽいのが出てくるはずである (おそらく違法アップロードという奴だが) 。今回はこのアニメーションに関係する話をしたい。

 このアニメーションの作者は近藤聡乃氏である。近藤氏は画家であると同時に漫画家でもあり、現在は「ニューヨークで考え中」などの漫画を描いている。このWeb漫画を読めば分かるとおり、現在はニューヨークに住んでいるらしい。近藤氏の作品はウェブサイト「Akino Kondoh」で鑑賞することができる。 近藤氏は1980年生まれで、出身地は千葉県である。2003年に多摩美術大学グラフィックデザイン学科を卒業している。 件のアニメーションを完成させたのは2002年のことで、近藤氏が大学4年生だったときのことだ。

近藤聡乃作品集

「電車かもしれない」のシーンが掲載されたページもある。

 そもそも「電車かもしれない」という奇妙な題名は、元はロック(?)バンド「たま」に在籍していた知久寿焼氏の楽曲である。 「アックス」Vol.42に収録された近藤氏と知久氏の対談によると、近藤氏があのアニメーションを制作した理由には「たま」が好きだったということもあったようだ。アニメーションに使う楽曲の候補は「電車かもしれない」と「満月ブギ」の二つだったらしい。アニメーションにしやすい楽曲だったそうだ。

「アックス」第42号

近藤聡乃氏と知久寿焼氏の対談が収録されている。表紙は近藤氏の作品。近藤氏の作品にはこの少女を描いた作品が数多く見られる。

汽車には誰も乗っていない

「たま」の楽曲が収録。アニメーションに使用された「電車かもしれない」はこちらに収録されている。同じく収録された「汽車には誰も乗っていない」や「まばたき」もかなりの名曲である。他にいくつかインストゥルメンタルも収録されている。

しょぼたま2

こちらにも「電車かもしれない」が収録されているが、近藤氏のアニメ作品に使われたものとは異なるバージョンであるため注意。こちらのバージョンも秀逸。

たま ナゴムコレクション

「満月ブギ」が収録されている。「満月ブギ」は柳原陽一郎氏の楽曲である。

 前述の対談によれば、近藤氏は「月刊カドカワ」で連載されていた「たまの百葉箱」が好きだったらしく、知久氏の絵を全て模写していたそうだ。もしかしたら、近藤氏の作品はたまの影響を受けているかもしれない。 なお、「はこにわ虫」に収録された「はこにわ三部作」はたまの楽曲「はこにわ」 (柳原陽一郎氏の楽曲) が題材となっている。たまのファンは必見である。

はこにわ虫

 前述の対談には他にも昆虫に関係する話も語られている。知久氏はツノゼミなどの昆虫が好きな人物であり、近藤氏も昆虫を題材とした作品を制作している。気になる方は是非とも一読することをおすすめする。国会図書館などを利用するといいだろう。ちなみに、近藤氏は対談中、羽化したての虫について「すごく美味しそう」「チェルシーのヨーグルト味がしそう」という強烈なコメントを残している。

参考文献

2016年9月4日日曜日

「主語が大きい」という奇妙な表現

 ネットの一部の界隈では「主語が大きい」という表現が使われることがある。おそらくはネットスラングである。議論好きの集まる界隈や、政治関係の話題をする人々の集まりでよく見かけるし、ライトノベル関係の界隈でも見たことがある。漫画「さよなら絶望先生」で似たような表現を見たことがあるが、このスラングはその漫画が元になっているのかは私は知らない。

 「主語が大きい」という言葉は否定的な意味合いで使われる。私の知る限りでは、この言葉は「主語」の指し示す範囲が余りにも広すぎるという意味で使用されるようだ。例えば、「最近のライトノベルはRPGのパロディばかりで詰まらない」と誰かが言えば、ライトノベル好きが反例となる作品を挙げつつ「主語が大きい」と言って批判する。「女性は家にいるべきだ」と誰かが主張すれば、女性の意思や家庭それぞれの事情を無視しているという意味で「主語が大きい」と言ってその主張は間違っていると批判する。「主語が大きい」主張とは、「主語」の指し示す範囲の実情や傾向が主張と合っていないという観点で批判されてしまう主張ということである。

 ただ、「主語が大きい」という言葉の使われ方や意味には奇妙なところがいくつかある。

 例えば、世の中で道徳と呼ばれるものは大抵「主語が大きい」。親が子供に「嘘をついてはいけない」という道徳を教えようとして、子供が「主語が大きい」などと反論するということを考えてみよう。確かに、「嘘をついてはいけない」という道徳はいつ何時も肯定されるというわけではない。「嘘も方便」とは言ったもので、お世辞の一つも言えないというのは人間関係を破壊しかねない。また、殺人鬼に追われている人間を家に匿った後に、殺人鬼が自宅に尋ねてきたとして、殺人鬼が誰かいないかと聞いてきたときに、馬鹿正直に質問に答えればどのような結末になるかは想像がつく (この場合では嘘をついても自分が殺されかねない気もするが、これは例え話だから勘弁してほしい) 。とはいえ、あらゆる嘘が肯定されるかと言えばそうではなく、例外を除けば大抵は嘘は良くないことだとされる。どうして嘘をついてはいけないかという話をこれ以上掘り下げるつもりはない。ここで何が言いたいかと言えば、全ての「主語が大きい」主張が「主語が大きい」と批判されるわけではないということである。前述の例で言えば、ライトノベルを非難する主張に対してライトノベルを弁護するという目的や、女性の自由や人権などを守るといった意図で「主語が大きい」と言っていたわけである。「主語が大きい」という言葉が使われる対象はあくまで恣意的に選ばれるのだ。

 そもそも「主語が大きい」主張がどうして悪いのかと言えば、実態を捉えられていないと思われることが多いからだろう。「主語が大きい」主張は「主語」の指し示す範囲が広い。「最近のライトノベル」で言えばここ数年のうちに複数の出版社で出された多数のライトノベルを指し、「女性」で言えば人口のおよそ半分である。「主語」の中には主張とは実情がそぐわない例も多いだろう。「主語が大きい」主張は反例が多く、反論を受けやすい。反例が多いからと言って主張が誤っているとは限らない。実際の傾向と主張が一致していれば正しいと見なされる場合もあろう。もちろん、「主語が大きい」主張の中には実際の傾向とも一致していないものも当然ながら存在する。

 ここで問題なのは、「主語が大きい」という言葉自体が「主語が大きい」ということである。「主語が大きい」という言葉がどうして批判になるかと言えば、「主語が大きい主張は誤っている (または誤っていると思われる) ことが多い傾向にある」ためである。「主語が大きい」主張も世の中には数多くあり、それが全て誤っているというわけでもないだろう。例えば、「嘘をついてはいけない」という道徳のように「主語が大きく」ても批判されない主張もある。極力多くの人に効果的な政策をとる場合は、「主語が大きい」ともとれる主張をもとに政策を考え出すことになるだろう。多少の反例を無視してでも大多数に効果のある政策をとるためだ (ただし、意図的に少数派に対して効果のある政策をとる場合もあるだろう) 。「主語が大きい」ことを諌める言葉が「主語が大きい」というのもなかなか奇妙なものだ。

 そもそも「主語が大きい」という言葉を字面通りに見れば、「主語」についての主張をすること自体を批判していることになる。まるで、「主語」は神聖なものだから話題にすることすら咎めるべきとでも言っているかのようだ。私自身は世の中には話題にするのが憚られる対象があっても仕方がないと考えているが、表現を規制することを嫌う方は「主語が大きい」という言い回しを避けた方がいいのではなかろうか。

 前述の通り、「主語が大きい」という表現自体が自らを批判するという奇妙な状態になっている。私としては「主語が大きい」という言葉で物事を片付けず、「主語が大きい」主張の何が悪いのかを説明して反論した方が、相手の主張を効果的に論述する良い批判になっていると思う。「主語が大きい」主張が全体の傾向や大多数の実情にそぐわないという場合もあるだろう。傾向や実態を見事に捉えている主張だとしても、「主語」が大きいだけに反例が多い分、反感が集まりやすいという意味で「正しくない」という場合もあるだろう。主張自体がある価値観のもとでは「間違っている」ために「主語が大きい」という言葉で批判してしまうという例もある (特に個人主義を守るべきと考える人が、人は自分の属する共同体で共有される価値観に合わせるべきだというような主張に反論するために「主語が大きい」と言ってしまう場合がある) 。便利な言葉でばっさりと切り捨てたつもりだったが、実際は相手の主張の問題点をうやむやにしてしまっただけだったということにもなりかねない。より適切な言葉を選んで、適切な批判をした方が、多くの賛同を得られやすいのではないかと私は思わずにはいられない。

青年、ヴァニラ画廊に行く~「虚ろの国のアリス展」、「少女の主張」感想~

この記事は本来はに別のサイトで投稿していたものです。修正した点もあります。

ヴァニラ画廊案内
展示内容

はじめに

 、私は「ヴァニラ画廊」という場所を訪ねた。場所は新橋駅の近くの建物の地下2階。入場料は500円。 きっかけは花蟲氏のTwitterアカウントで「虚ろの国のアリス展 Alice in Hollowland」というものが開かれていると聞いたことであり、後で「少女の主張 EXHIBITION/Homage‐Peach MoMoKo」という展覧会も同時に開催していると知った。そこで、主に花蟲氏と富崎NORI氏の作品を目当てにこの2つの展覧会を見物しに行ったのである。 今回はこの展覧会を見に行った感想を記そうと思う。色々な意味で素人の作文だから、あまり期待しないでお読みいただきたい。 特にメモをしていたわけではなく、記憶を頼りに作品名や作品の特徴を書いているため、事実と異なる部分や誤記もあるかもしれない。ご容赦いただきたい。

虚ろの国のアリス展 Alice in Hollowland

 「虚ろの国のアリス展」は題名通りルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」をモチーフとした作品の展覧会であり、童話の世界に鬱屈とした成分を垂らし込んだような内容だった。部屋の中は、入り口から入って正面のところに花蟲氏のアニメーションの上映、中央にテーブルと椅子、壁には各作者の絵、天井には花蟲氏の作品のタペストリーがぶら下がっているという構成だった。 中央のテーブルにはトランプが散らばっており、「Drink Me」のラベルが貼られた赤い液体入りの薄汚れた瓶や、赤く塗られた白い薔薇などが置かれている。いずれも「アリス」に縁のある品々であった。椅子には黒いシルクハットや絵の入ったクッションなどが置かれていた。 部屋の中をマチゲリータ氏作曲のアニメーションのBGMが響き、テーブルや椅子の力の入った装飾が存在感を放っていたために、展覧会の会場の中は外界とは全く異なる空気となっていた。

 shichigoro氏の作品はアリスのキャラクターの体を重苦しい金属や合成樹脂で置き換えたようなものを描いた絵画だった。皮膚はセラミックに置換されているように見え、薄汚れている上にヒビが入っている。衣装は金属やチューブ、ガスのフィルタなどでできており、錆で汚れている。スチームパンクというものだろうか。ファンタジーの世界に異常な発展を遂げた科学技術の合理性を持ち込んだ異質さがある。 展示されていた作品の一つに「A-boushi-ya」がある (どういうわけか、どの作品の題名も「A-××」という形式だった) 。 この絵の帽子屋は押し黙って睨みつけているかのような表情だが、どのキャラクターもそうだったというわけではなく、アリスの絵なんかは微笑みを浮かべていたように記憶している。ただ、セラミックの顔面の上の笑顔は冷たさや不自然さを感じさせるものだった。 トランプ兵の絵もあったが、トランプのカードに手足が生えたようなものではなく、金属と合成樹脂の円柱にトランプのマークがついているというようなロボットじみた風体で、ある種の合理性の追求を思わせるものだった。 トゥイードルダムとトゥイードルディーは目が大きくて可愛らしくも見える外見をしているが、その体表は陶器を思わせるものだった。

 花蟲氏を私が初めて知ったのは、氏のウェブサイトにある人形を操作するゲームからである。おもちゃ箱をひっくり返したような世界をパズルを解きながら探索するゲームなのだが、その世界観に感動した記憶がある。花蟲氏の作品は、私の中では怪物と少女という組み合わせが多いという印象だったが、今回の作品にもそのような作品があった。アリスの腕とうさぎが合体しているような絵、肥大した印象を与えるハンプティ・ダンプティとその上に立つ王冠で顔を隠した少女の絵、にやにや笑いを浮かべる目がたくさんあるチェシャ猫とその隣でしかめ面の少女の絵、時計と融合した時計じかけのうさぎの絵。少女のギョロリとした丸い目玉や、怪物たちの厭らしい笑みが印象的である。ある絵には帽子屋らしき怪物が描かれていて、シルクハットを被り、コーヒーカップを持っていたからそのように判断したのだが、その外見は目玉がいっぱいで触手の生えた球体である。童話のような世界の中に毒々しさを感じる作風は、今回のアリスをテーマとした展覧会の主軸を感じさせる。 最も記憶に残ったのは前述のアニメーションで、「Down, down, down」といった感じの題名だったと思う。内容はアリスが穴の中を落ちていくというもので、蝶が空を舞ったり、魚が空中を泳いでいたり、穴の側面からハンプティ・ダンプティや例の触手玉などの怪物が顔を覗かせたり、心臓のようなものが出てきたり、きのこが生えてきたりする。画面は賑やかに変化するが、アリスは始終虚空を眺めながら落ちるばかりであり、地面に着地したり誰かが受け止めてくれたりすることは無さそうだ。アニメーションは展覧会中ずっとループ再生しており、アリスは展覧会が終わるまで、怪物たちの見守る中を永遠と落ち続けたことだろう。

 今回の展覧会で最初に鑑賞したのはトレヴァー・ブラウン氏の作品で、その作品とは「pandora posters, squeee!」に掲載された二つの絵のうちの下の方の絵画のことである。ボロを着た少女が壁に寄りかかって座り込み、蛆の湧く腐った林檎を持っている。倒錯したものを感じ、初っ端からかなりの衝撃を受けた。 他にも「alice in hollowland」にも掲載されている触手の生えたゼリーを抱えた半裸の少女の絵や、力なく垂れ下がるフラミンゴの首とそれを睨みつける少女の顔が印象的な「impotent」という題名の絵画 (題名の意味は「インポテンツ」だそうな) 、少女の姿をしたトゥイードルダムとトゥイードルディーの絵などがあった。その中でも最も印象に残ったのは「another alice」という題名の絵画で、半裸の少女の顔や胸がクレヨンで落書きされているというもの。いやに暗示的な作品である。今回の展覧会での最大の収穫は、「トレヴァー・ブラウン」という名前を知ったことであった。私にとってはそれほどに衝撃的な作品だったのである。

 この展覧会では七菜乃という方の作品もあった。その作品は「trevor cos」。前述のトレヴァー氏の作品を自らの体を使って再現するというもので、まさに「トレヴァー・コス」というわけである。「i heart u」という記事で紹介されているのは、心臓の形の頭の少女を描いた同名の題の絵画を七菜乃氏の頭で再現したものである。例の「another alice」を再現した作品もある。詳しくは語らないが、芸術的な半裸だったよ。

 GENk氏の作品はややホラー風味のもので、いずれも女性を描いたものだった。胸から血が流れ、それが空を覆いつくすような様を描いた絵画は、女性の生気のないぼんやりとした鈍色の瞳が記憶に残る。うさぎの耳の生えた女性の絵は無表情で刺すような瞳が印象的である。背景は明るく淡い青色で、うさぎの耳はえらく抽象的なふわふわとした白いもやのように描かれているだけに、女性の表情が対照的に映る。氏の作品の中で最も興味を感じたのは「kawaii in bloom」という題名 (だったと記憶している) の作品である。目をカッと見開いた少女の周囲には、「Drink Me」のラベルの瓶からこぼれた黒い液体や、色とりどりの錠剤と思しき物体。「Eat Me」と書かれたものもある。寓話的なものを想起させる面白い作品である。

 猫将軍氏の作品には鈍重さやメルヘンな空気はなく、むしろ鋭利なものを感じさせる。 ハートの女王の絵画は女王の冷徹さと酷薄さを感じさせるもので、手に持つフラミンゴは目を封じられ、くちばしは縛られ、体は拘束されている。このフラミンゴならばクロッケー大会も滞りなく進められそうに思われる。トランプ兵の絵は「Black」と「Red」の二つ (確かこういう題名だった) 。表情の隠されたトランプの兵が赤と黒の対になって上半身を逆さにくっつけたような絵で、スタイリッシュな印象を与える。上下がひっくり変えると攻撃方法が変わる敵としてビデオゲームに出てきそうだなと考えてしまったのは、氏がゲームのキャラクターデザインを担当したことがあると直前に聞いたためだろう。

少女の主張 EXHIBITION/Homage‐Peach MoMoKo

 もう一つの展覧会は題名通り、桃桃子という方の作品を中心に据えたものらしい。アリスの展覧会とは違ってこちらには飾りはほとんどなく、作品だけが並ぶ構成である。

 桃桃子氏の作品は「死」と「女性」をモチーフとしたものであるらしい。女性とともに骸骨や腐乱死体、銃火器などが描かれた作品が展示されていた。 「双子の姉」という題名の絵画があったと思うが、あの絵画に描かれていたのは確か、女とそれにべちゃりと寄り添う腐乱死体だった。どちらが姉なのだろう。 他にも、女の運転する霊柩車の助手席に死体、寺院部分に骸骨というような絵や、建物や事物が片側面で崩壊している「破壊と再生」のシリーズ、死体の中の女性が描かれた「乙女ちゃん」、伝統的な建物のような物体の前に立つボロを着た女を描いた「腐敗世紀日本」などが展示されていた。 中でも強烈だったのは、包帯で巻かれた女と、手足が切られ腹を開いた裸の女を描いた「ギブアンドテイク」という題名の絵画である。二人の女の肉体には番号がところどころに振られており、その番号は対応する部分を移植する1という意味合いなのだろう。 また、棺か墓の山の前で銃を抱えた女を描いた「スラム墓地」、ヘルメットを被り、ランドセルに手榴弾を括り付けた少女の兵士の絵画「ランドセル隊」、ヘルメットを被り鳥を抱えた女とその背後にある銃痕の残る壁の絵画「ミリタリー墓地」など、政治的な意図を感じる作品が目立った。

 Damien Glonek and Ed Longという方々は「リビング・デッド・ドールズ」というものの産みの親とのことで、その展示作品も1つの絵画を除けば全て人形であった。絵画の方は嫌な目つきの少女の絵で、展示された人形は少女人形ではあるのだが、題名どおりに生ける屍といった様相。血が垂れていたり、非人間的な目つきだったりしていた。

 富崎NORI氏の作品を最初に見たのは「ステーシーズ―少女再殺全談」という書籍の表紙だった。それ以来、氏の作品が気になっていたため、この機会に鑑賞できて良かったと思う。 氏の作品もまた少女を描いたものが多いのだが、その少女たちは球体関節人形の姿をしている。 最も印象に残ったのは「ビニールのうさぎ」という作品で、やはり少女が登場するのだが、その少女は片手に虫取り網、もう一方の片手に紐を持っている。紐の先はにんじんに結ばれており、にんじんはビニールのうさぎの前に置かれている。背後にはケージがある。少女はどうやらビニールのうさぎを捕まえようとしているように見える。文字に表すとなんだかユーモラスな風に聞こえるが、少女が少女なだけに、あまりそういう感じはしない。 「お馬さんごっこ」という絵画は、青い四つ足の物体を少女が足の間に置いて、物体の頭につけられた手綱を持っている様が描かれている。物体は馬のように扱われているが、大きさと姿からして犬を青い布で包んだものであるようだ。その側には空の鳥籠がある。鳥籠の周りには鳥の羽が散らばっており、その反対側には青い布で覆われて飛べなくなっている鳥。何だか薄ら寒いものを感じる作品である。 他にも少女の部屋中にビニールのうさぎの人形を置いた絵画や、人形を結わえた紐を持つ少女の絵「」、毛糸玉の鳥が印象的な「毛糸」などもあった。

 千之ナイフという方は漫画家のアシスタントを経験した方らしく、作品はやはり女性の絵であるのだが、その女性の容貌が特徴的で、目は大きく、口は小さめで、目と口の距離が狭く見える。女性の容貌の表現の独特さから私にはピンと来なかったが、独特な題材を扱う漫画を制作している方らしく、興味のある方もいらっしゃると思う。

購入したもの
購入物品

ポストカードと封筒。封筒は画集などの校正に使った紙を再利用したものらしい。封筒はトレヴァー・ブラウン氏の絵が描かれている。画集は予算オーバーで買っていない……。

おわりに

 以上で展覧会の感想文を終わりとする。今回の展覧会ではもともと知っている方の作品をじっくりと鑑賞する機会を得られたというのもあるが、知らなかった作家の作品を知ることができたというのも大きな収穫である。このような展覧会に行くのは実は初めての経験だったが、機会があればこのような展覧会にまた行ってみたいと思う。画集も購入したいところだ。